Site Overlay

遺書

〜 僕は昔、九段下 に住んでいたことがある。

東京都九段下。

そこはキーンとした空気が流れる不思議なところだった。僕の人生時間の中でも数々のドラマや沢山の思い出が産まれた大切な場所。

そもそも何故九段下に住もうと思ったのかというと、当時付き合いが深く貴重な友人だったKISSAの常務 嶋村丈二さんが「増田くんは神保町のビルの一室とかの物件が絶対に似合うよ」という話をしてくれたのがきっかけだった。

KISSA・・日本のファッションシーンである時代を作った、歴史上語り継がれる偉大なシューズデザイナー高田喜佐さん

彼女は僕の人生において、本当に、とても、とても大きな存在だった。

僕は小さい時から人との関わり方がわからず、中学高校時代から20代のそのほとんどを、世の中と接点をどこにも持てずにあてもなく彷徨っていたとても辛い時代があった・・

そんなどうしようもない僕を、喜佐さんは心から「本音で評価してくれた」数少ない人物だった。

彼女と出会ったことで、「僕にはまだやれることがあるのかもしれない」と、なんとか自分を捨てずに生きる事が出来たのかもしれない。

さて、話を元に戻すとしよう。神保町の物件を色々と探してはいたのだが、なかなかいい物件が見つからず、不動産屋さんに「それじゃあ、少し雰囲気は変わりますが、一駅手前の九段下駅徒歩4分のところに一件いい物件がありますので一度見てみますか?」と言われて一目惚れしてしまったのが『スプリーム九段』だった。

場所はあの靖国神社の鳥居の真ん前。

そう。鳥居のみえる表参道に面したその雰囲気がとても気に入って、僕は即決してしまったのだった。

さて、住むと決めたのはいいものの、一つ大きな問題があった。

当時20代だった僕は、渋谷にある不夜城の広告会社で昼夜問わず馬車馬のように働く毎日。数少ない休息に行くのはサーフィンとスノーボード・・日々の趣味はもっぱら仕事終わりの夜のドライブだった。

そのころ乗っていた車が、何故かリリースされて間もなかったBMW初の大型SUV(SAV)X5の4.4L だった。そしてその巨体は立体駐車にはおさまりきらないという弊害もあわせ持っていた。

そこで困ったのが愛車の駐車場問題。

九段下にはとにかく駐車場がない。コインパーキングも数カ所あるだけでしかもいつも何故かうまっている。。

徒歩10分圏内に何箇所見つけはしたものの、麹町や皇居側ということもあり、当時の地価は成城や田園調布よりも高かったので、九段下徒歩10分圏内の青空駐車場は当時なんと月6万円〜・・・

「仕方ない」と諦めかけていたその時「ちょっとお気に召すかどうかわからないですが・・」と不動産屋さんが教えてくれた物件があった。そこはなんと

『靖国神社の神社関係者の駐車場』

靖国神社の奥という立地に、守衛さん付きのセキュリティーバッチリの青空駐車場で、月4万円という破格。横にスライドする大きなゲートを入ったところにあるなんとも凛とした駐車場だった。

すぐに飛びついた僕だったが安いのにはちゃんと理由があり、なんと夜9:00以降はゲートが閉まってしまい出入りができなくなってしまうらしいのだ。

朝は5:00からゲートは開いているのだが、大体が午前様だった当時の自分の生活リズムを考えるとあまりにも不便。。。でも何故か特別なご縁を感じてしまった僕は、遂に靖国神社の駐車場と契約を交わすことになったのだった。

〜 駐車場への道のりは、毎日が靖国参拝。

住んでいるマンションを出てすぐの参道を抜け、本殿を右に行くと御朱印などを押してもらう社務所がある。目の前に広がる綺麗な整備の行き届いた松の林を抜け、遊就館の横を少し歩いたら、そこが僕の駐車場だった。

遊就館

その存在を知る方が、この日本にどれくらいいるだろうか。そこはいつも沢山の参拝、観光客の方が訪れている資料館で、僕自身もいつも横を通るので気にはなっていたのだが、なかなか訪れる機会は訪れなかった。

でも何故かある時、季節はちょうど今くらい。夏真っ盛りだったような気がする。

ふと、一度足を踏み入れてみたくなったのだった。

オフの日に、ドライブした後、いつもの駐車場に車を停め、そのまま遊就館に向かったのだった。

入館してすぐに圧倒される。あの「ゼロ戦」の実物にドーンとお出迎えされる。

その後も圧巻の展示物の数々に終始圧倒…。映画を上映するスペースもあり、時間に余裕のある方はそこでも貴重な映像を見ることができた。

特に人間魚雷やゼロ戦の特攻の詳細を知ってしまうと、やはり胸が詰まる思いがして、正直かなりしんどかった。。

でも、全体的には自分たちが受けてきた戦争教育とは少し違った。なんだろう。前向きな気持ちになれる本当の意味での嘘のない展示内容に僕は思えた。

そして、展示は後半に差し掛かり僕の人生を大きく変えてしまう出来事が押し寄せる事となる。

展示室16から19までに僕を待っていたのは、特攻や、もう二度と帰ってこれないことをわかっていて覚悟を決め旅立っていった英霊達(特に戦死者の霊を敬っていう言葉)の御霊が残した、直筆の

『遺書』

だった。

なんだろう…

こんなにも、人前で、涙を、心の底から涙が止まらなくなり、公の場で嗚咽したのは、生まれて初めてだったかもしれない。

僕は、衝撃を受けた。

「今まで俺はいったい何をやっていたんだろう。」

「なんて浅はかな時を過ごしてきてしまったのだろう。」

と激しく自分を責めた。

そこにあったのは、今でも生きている。そこに着実に生きている。

死にゆく人が残した真の 『 魂の叫び 』 だった。

皆の遺書にある、共通した思い。そのエネルギーとは。

なんと、後世に、全てを託す 

「希望の言葉」

だったのだ。

「お母さんのことをよく聞いて、立派な大人になるんだよ。日本を、この日本をどうか宜しくお願いします。」

「僕は君と一緒に結婚生活を送ることはできなかったけれど、何度生まれ変わっても、僕は必ず君を迎えに行く。」

「お母さん。僕はこれから死ぬのがとても怖いです。でもどうか兄弟達を宜しくお願いします。どうか僕の分まで悔いのないよう生き抜いてください。」

「みんな、靖国で会おう!!!」

この肉体は粉々になろうとも、僕たちの御霊はいつも君たちと共にある。

だから何も心配することはない。だからみんな精一杯生きるんだ。日本を、この国をどうか宜しくお願いします。

僕には、皆さんがそう、全ての残された人に語りかけているように感じました。

怖いとか悲しいとか、そういう気持ちは一切なく。

大きな家族の愛に包まれたというか、

大きな大きな魂の大河に、自分の御霊がリンクして、大いなるエネルギーをもらった。

もらい続けられる。。そんな神秘体験をした。というのが実は本当のところなのです。

それから、僕は展示室を引き返し、映画の上映時間に映画を観ました。

そこでの観た映像の最後のセリフに

「靖国の御霊が今でもこの日本を守ってくれているんです」

という言葉があった。

その通りだと思いました。

靖国神社には明治以降、戦争で亡くなった約246万人の御霊が祀られている。

それは国家の守護霊でもあり、我々一人一人の家族の守り神だとも言えるのではないだろうか。

遺書にあった共通した思い。その魂の叫びとは、

『 繋がっていく命への無償の愛 』

そして

『 命の尊さ 』だった。

どうか、これからも、この国で暮らす人々がずっと平和でありますように。

どうか、永遠にこの国で命を繋いでいけますように。

どうか、大好きな人と、かけがえのない時が過ごせますように。

僕も、あれから、寝ても醒めても思い続けている一つのこと。

それが、「自分の人生を、悔いなく精一杯生き抜くこと」である。

例えどんなことがあっても、自分に偽りなく、後悔なく、本音で生き抜こうと心に誓ったんだ。

どんなときも、まっすぐで純粋な曇りなき御霊であり続ける事。

そしてそのかけがえのない命というエネルギーを、きちんと後世へと繋いでいくこと。

それを忘れないで生きることが、消えていった人々の残した思いへの応えであり、責務だと思うから。

だから僕は、どんな時代にどんなことがこの身に降りかかろうが、自分を信じて進むと決めたのです。

大丈夫。

だって、僕らは今ここに、こうして生きているんだから。

農園主