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50歳という節目

今週は寒波がやってきて各地で雪の予報ですね。そんな雪がちらつく中、コツコツと田んぼの畦ぎわの多年草の草取りを進めております。

この寒い時期に草取りをやることで春の草取りの大変さが全く違ってきます。

問題を先送りにせず、放置せず、何事も先手先手で懸念事項を潰すことが、必勝パターンを作る上での僕なりのセオリーです。

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さて、忙しい合間に、珍しくこの度、わたくし、

藤田さんの講演会を聞いてきたのでありました。

最近はほぼほぼ、講演会を聞くなんてことは無くなってしまったのですが、あの藤田さんなので、当時を思い出し、なんとなくエントリーしたくなってしまったのでした。

藤田晋。「サイバーエージェント創業者」あの藤田晋さんです。

そして、実はこの私、2001年から2007年の間、サイバーエージェント※以下CAで働いていたんです。

時はちょうどネットバブル崩壊直後・・まさに激動の時代でした。

これが当時の僕の写真。
マークシティー21階、時は2005年、29歳頃。

そんな激動の時代に生きた、若かりし頃のわたし。

ここで サイバーエージェントをご存じない方に、少し前説を。

日本の広告代理店とは、ひと昔前までは総合広告会社が一般的でしたが、

今では日本の三大代理店とは、電通、博報堂、サイバーエージェント。と呼ばれるほど、サイバーエージェントの実績と知名度は世間一般視点で見ても誰もが認めるものとなっています。

そんなサイバーエージェント。実は1998年にゼロから立ち上がったベンチャー企業でした。

たった27年やそこらで、名実共に日本を代表する企業へと成長したという・・日本の歴史を見ても他に類を見ない稀有な存在と言えます。

サイバーエージェント※以下CA は人材派遣会社インテリジェンス(後のパーソルキャリア)社員だった藤田晋さんが、パーソルキャリア創業者の宇野康秀さんの支援を受けて日高裕介さんと1998年3月に創業。2001年に東証マザーズに上場した伝説の企業です。

上場直後、ネットバブル崩壊を受け、株価は大暴落・・

多くの従業員もその時期に退職し人材が入れ替わりますが、僕とのご縁はちょうどその頃に始まります。

その後、ドッグイヤーと呼ばれる時代を駆け抜け、インターネット専業広告代理店として、メディア企業として、右肩上がりの増収増益を続けていくことになります。

あまりにも過酷な労働環境ゆえ、退職者も非常に多い会社でしたが、数多の人材を輩出した会社でも有名で、CA関係者、CA出身者はインターネット業界で様々な会社やサービスを立ち上げていきます。

今、一般の方が利用しているサービスのそのほとんどをCA関係者、CA出身者が作っていったと言っても過言ではないくらい、インターネットビジネスにおいては、日本仏教でいうところの、数多の高僧・宗派を生み出した、あの比叡山延暦寺のような存在だったとも言えます。

会社の拠点は、渋谷マークシティーの21階。不夜城と呼ばれた24時間眠ることのない会社でした。

私も月曜〜金曜日まで会社で寝泊まりし、朝8:30頃に営業に出て行く・・外回りから戻り事務処理に追われ、夜中1:00頃から次の日の提案のミーティングが始まる・・というような毎日で、金曜の夜からは夜の街にみんなで消えて朝帰り・・ずっとそんな調子でした笑

2001年頃は、ネットバブル崩壊後、上場直後のCAの株価は大暴落・・藤田さん自身も数多の投資家から恨まれ、それはそれは命を狙われるかのような大変な時期だったのではないかと思います。ご自身も「あの時が一番しんどかった。。」と振り返る大変な時期だったんだと思います。

2001年は成果報酬型のアフィリエイト広告が日本に初上陸し、それまでの期間保証やクリック保証といった広告の概念を覆すことになる時代のはじまりで、今では当たり前になった、検索エンジンというものもやっと出てきた頃、そしてやっとイーコマースが日本で広がるか、、というそんな時代でした。モバイルはガラケー。高速インターネットの普及も全然まだまだの時代で、ネット黎明期といわれる時期でもあったかと思います。

当時、私を採用してくれたのは、元リクルートのトップセールスマン。業界内では知る人ぞ知る有名なトップセールスマンの方でした。この方が後の私の人生を変える生涯の恩人となる方です。

当時のCAは、博報堂、電通、リクルート等々、代理店最大手とメディア最大手から優秀な人材が集まってきており、彼らがそれぞれのセクションのトップを担当していました。

私の上司は非常に厳しい方で有名でしたが、本当に私は可愛がってもらい、彼から営業のノウハウ、仕事の心得、社会人としての全てを学んでいくことになります。

実は、このご縁が始まる少し前、CAに入るきっかけとなった出来事がありました。

僕は、美大時代から続けていたテーマの作品作りに区切りをつけ、それまで描き溜めていた作品を披露する個展を開催しました。場所はとあるご縁があり渋谷のど真ん中、渋谷パルコの横のギャラリーでした。

最高の立地ということもあり、自信満々で開いた自身初の個展でしたが、思っていたのと正反対の結果に打ちひしがれることになります。

全く人が来てくれなかったのです。

これには流石の僕も相当なショックを受けました。自信喪失ってやつです。

この結果を自分なりに冷静に分析した結果、例え良い作品を作ることができたとしても『それを知ってもらうための活動がないと誰にも何も伝わらない』ということに気付かされたのでした。

「良いものを作りさえすれば、必ず伝わる」という何の根拠もない自信に取り憑かれていた私は、世の中には人に伝えるための手段や専門分野ある。ということを知り、頭をハンマーで殴られるかのような大きな衝撃を受けました。

それはマーケティングや、営業、ブランディングといった、当時の私では全く知り得なかったビジネス用語であり領域でした。

せっかく自信を持って作った作品が人に見てもらえないという現実。あまりのショックと、挫折感で、しばらく立ち直ることができず、色々と考えた結果、この「マーケティングや営業という領域について本気で学び、身につけたい」という強い思いが湧いてきたのです。

そして僕は絵筆を置き、スーツに袖を通して出直すことを決意します。

***

ゼロからの再出発。そこには「死ぬきで身につけてやる」という強い決意がありました。

ただその頃の僕といえば世の中に接点が全く持てなかった時期。。

学歴も職歴も無いこんな自分を認めてくれるところなんてあるのだろうか・・藁をもすがる思いで求人広告を探し、当時mixiの前身だった Find Job で見つけた「マーケティング」と「営業」というキーワード。それに引っかかった求人広告。。その一つが サイバーエージェント だったのです。

実務の経歴、学歴も職歴もまるで無い、全くの素人。しかも当時はパニック障害を患い、処方された薬を肌身離さず持ち歩かないと人前に出られない程病んでいた統合失調症、鬱状態の私・。

当然、まともに人と会話ができるわけもなく、ましてやパソコンやインターネットなんて、、そんな状態の人間だったのです。

応募して少し経った日のこと、思いもよらぬ書類選考通過の連絡・・・どんな会社かも知らず、案内のまま、渋谷マークシティーの21階に足を運ぶことに・・

待っていたのは、数人のスーツを着た僕と同じ面接を受けに来られた方。しばらく待っていると面接官らしき方が数名入ってきました。それにしてもすごいオーラ・・

一番上の方と思われる面接官は関西弁の方でした。標準語でコミュニケーションすることがまだ苦手だった当時の私は、大きな親近感と共に安心感をおぼえることになります。そして面接はどんどん進んで行きました。

そしてこの後、耳を疑う意外な言葉が、その面接官から発せられます。

「来週から来てもらうことになると思うけど。」

「え?!!」

正直、その場で起きていることが信じられませんでした。

何の経歴も学歴もないようなスポーツと絵しか描いてもなかったこんな僕が、何故??!

その後、標準語でのコミュニケーションをマスターし、誰よりも流暢に営業トークをし、使ったことのないPCを使いこなし、誰よりも素早くツールを駆使し、誰よりも数字を叩き出すトップセールスマンへと成長し階段を駆け上がっていくことになるなんて、その当時の僕がどうして想像できたでしょうか、人なんて本当にわからないものです。

そして後日、僕は恩師Tさんにこう尋ねました。

「何で僕を採用したんですか?」と。

彼からは間髪入れず、一言こう返ってきました。

『 勘 』

『勘や。でも俺の勘は当たるで』

彼がいなかったら今の私は、私たちはありません。そしてCAで働くこともそんな会社、知ることもなかったでしょう。

本当に、感謝しかありません。このTさんのことはいつもふとした時に思い出します。

あなたから受け取ったご恩は、今後も全てのこれから続く人々に渡し続けます。

溢れる愛。ご恩を忘れたことはありません。

今でもずっと。

ありがとうございます。

***

人というのは自分のことはわかっているようで意外とわかっていません。

特に素質や特性については、育った環境や思い込みが影響し、自分のポテンシャルに気がついていない方がとても多いのではないでしょうか、

自分の本当の才能に気づいてくれる、認めて伸ばしてくれる方にタイミングよく出会えるかどうか・・それがこの世の中で成功するかしないかを分ける、大きな要因としてあるような気がしてなりません。

さて、その後は出戻りもあったりしましたが、CAでの僕の快挙は続きました。当時はガラケーでインターネットが始まった頃でもあり、CAはそこでもトップシェア、トップランナーであり続けていました。インターネット広告がモバイル広告にシフトし絶好調に差し掛かった頃、僕はそのモバイル部門に配属され、またまたトップセールスを経てマネージャーに昇格、その後も、自社媒体の新規開発、広告メニュー開発を目的にしたマーケティング部署を立ち上げたりしましたね。

当時は薄利な広告代理事業を、このモバイルの自社媒体を中心としたモバイル部門が利益でも下支えし、グループ全体での右肩上がりの業績と株価を支えていったのでした。

とにかく、仕事といっても我々の場合、市場がまだ無い時代・何も出来上がっていないところでの開拓が全てでしたので、既存の商材を売ったり回すようなスタイルでは仕事は成立せず、市場の最前線にいる営業マンから常にニーズをクライアントの要望をヒヤリングし、それを形にする(広告メニューを作り、媒体を作り在庫を作り、サービス自体を作る)という毎日でした。

答えもないし、正解もない。そんな暗闇の中で新しいものを生み出していく力を養えたのも、この過酷な環境での毎日があってこそでした。だからどんな業界で何をやっても平気でいられる・こなしていける・・それは、あの無茶苦茶な環境で耐え忍んだ忍耐力と、前へ進む力を養えたからなんだと思います。

そんなCA時代とは、今の自分の全ての基礎を叩き込まれ、眠らずに働き続け、そして駆け抜けた・・

遅くに訪れたまさに私の青春時代だったのでした。

CAに入る前、病んでいたどうしようもなかった心も、いつの間にか癒されていましたね・

***

そんなこんなの私のCA時代・・社長の藤田さんは近いところにはおられましたが、朝から晩まで晩以降も現場現場の我々は、当時は彼と直接何か関わるような事はほとんどなく、雲の上の存在だったような気がしています。

ただ廊下ですれ違う時や、トイレでばったり合う時のオーラは半端なく、段違いの存在感を放つ、まさにカリスマでした。

当時は堀江さん(ホリエモン)や三木谷さん(楽天創業者)もトイレなんかでよく隣でばったりという感じで、今では雲の上と呼ばれる存在の人たちとも普通に一緒の空間にいたりはしましたが、中でも思い返せば藤田さんのオーラはまた別次元、別格だったように思います。

***

今回の講演会は、とても等身大で自然体な、藤田さんの肩の力が抜けたありのままが見れたような、今後も二度とないであろう、そんな貴重な機会だったような気がしています。

ここで、いくつか講演会で私の心に残った言葉をご紹介したいと思います。

「先送りを防ぐような仕組みを作る。問題の芽を早めに摘む仕組みを作る。渋谷にいると日々に忙殺されてしまうので、重要な経営判断や懸案事項の解決には、環境を変え(CAでは箱根に経営陣が定期的に集まっていた)みんなで決めて、また走り出す。ということをやっていた」

「規模が大きくなると経営は楽になる。30億くらいの利益が出るようになってから楽になり、次のフェーズに入った」

「会社で成果が出ない人、ネガティブなことを言ったり広めたしする人をケアすることはまず無かった。それよりも結果を出している人を更に伸ばしたり、ポジティブを広める人をどんどん応援し評価していった。それが良い結果を産むコツ。経営はスピードが命なので・」

「経営判断はタイミングが全て、そして自分都合で会社を絶対に使わない。(お金が欲しいから◯◯に手を出すとか、どこどこに参入するとか)全て市場の動向と未来を見据え、勝負どころを外さないことが大切。新規参入は特に、ここしかないというエントリーゲートが開いている一瞬を逃さずにgoする。そこしかないという機会を絶対に逃さないことを心がけている」

「国家権力とメディアは敵に回さないこと。それらに反発するとかっこいいし、若いとやるたくなるんだけれども、いいことはひとつもない」

「小さな約束や恩を日頃からとても大事にしている。それが後の大きな信頼につながる」

「やめるときにやめ時を逃すというのが会社にとって一番危険。だから事前に撤退するルールは決めておく」

「社員には希望を聞き、自分がやりたいと言ったことしかやらせない。結果が出ないと、そんな優秀なお前ができないのか、と褒めて鼓舞する。というマネジメントを続けてきた。報酬や上を見てとかいう古いマネジメントでは長期的にみてモチベーションが続かない。それよりも、自分が決めたからには後には引けないとか、誰かに恥をかかせられない、といったような側面を大事にしている」

「投資は当然、上場企業なので他のもので利益を出して無茶がない範囲で新規のチャレンジをしている」

「なんか言ったときに、負の側面を下げすまして論うような人材が一番採用すべきでない人材。面倒臭いし前に進めないので、とにかく素直でいいやつだけを採用する」

「ネット社会になって物事はすぐバレてしまう。綺麗事は全く通用しない。だから全て感じたままにありのままに率直に言う。ということを意識している」

「ユーザーから支持さえ得られれば、収益モデル、マネタイズは後からどうにでもなる」

「決めたことは曲げない。インターネット専業と決め、曲げなかったから成功した。途中で他のメディア(テレビとか)を扱わせて欲しいという意見が社内から多く上がったが、頑にインターネットの領域にこだわり続けた。それが真のプロフェショナル達を生み、会社の強みとなり、負けない企業へと成長した要因」

「調子に乗らない、浮き足立たない」

「マネジメント層から経営層にあげる基準は部下の成果を横取りしてしまうような人格の持ち主だと人が潰れていってしまうので『人格者』かどうか、が基準」

「準備が全て。インテリジェンス時代に即トップセールスとなり、日高(さん)と差が出たのはそこだった。自分は成功するのはわかっていた。何故なら誰よりも周到に準備をしたから。」

「起業することは、学生の時からずっとはじめから決めていた」

「調子がいいときに次を仕込む。」

以上のような感じです。

***

これらの言葉達から僕なりに感じたのは、

『 藤田さんは明確なポリシーを持って全てのことを自分で決め、そして実行し続けてきた方だ』ということです。

そして、仕組み化を重要視し、物事の見極めと実行力、継続力に非常に長けている方だということです。

***

今の僕は、そんな藤田さんたちの絶大なるエネルギーに守られ、第一線でご一緒させて頂いていた時代・場所からは遠く離れ、兵庫県南部地方の「田んぼ」というフィールドに立ち、農業という業界で、細々と生きています。

なんとか自分の描いていたやりたかったことは一通り形にでき、大好きな存在に、皆さまに囲まれながら、本当に幸せな毎日を送ることができています。

今年で50歳になる私、増田卓也。

様々な業界で、本当にいろんなことを経験してきました。

自分にしかできないこと、自分にしか経験し得なかったこと、それは、まがいなりにも自分だけの小さな、そして大きな財産なんだと思っています。

この財産を必要としている方々に、僕は分け隔てなく、全てを渡していきたい。繋いでいってもらいたい。いつもそう考えています。

こんな僕ですが、僕にしかできないこと、僕の視点からしか生み出せないこと、伝えられないことっていうのがある。そう思っています。

どの業界のどんなことでも構いません。

私でよければ、いつでもお声がけ下さればと思います。

増田卓也